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ゴッホの絵画「黄色い家」について解説します!

記事の内容

・ゴッホの作品「黄色い家」について

この記事を読むメリット

・ニッチなゴッホの作品について知ることができる

・友達と絵画の話になったときに自慢できる

ゴッホの絵画「黄色い家」について解説します!

こんにちは。松河潤です。

誰もが知っているであろう有名作家の1人がゴッホ

そんなゴッホといえば「ひまわり」なんかが有名ですが、

「黄色い家」という作品もニッチな人気があります。

今回はそんなゴッホの絵画「黄色い家」について解説していきます!

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「黄色い家」とは

「黄色い家」とは画家フィンセント・ファン・ゴッホによって描かれた絵です。

ゴッホは1888年からアルルに住んでいたのですが、

その時にゴッホが実際に住んでいた家が

画面手前の緑の窓の家です。

ゴッホはこの家を実際にアトリエ兼自分の家として使いました。

ゴッホは1888年にアルルにて画家の共同組合を提案しました。

絵の代金を画家たちで分配しあい、家計を助けあうというものです。

ゴッホはアルルの空気をかなり気に入っていたため、

画家仲間とこの地で絵画制作に励みたいと思ったのでしょう。

結果として、アルルに来たのはゴーギャン一人だけでしたが、

ゴッホはゴーギャンがアルルに来ると聞いて、

急いでゴーギャンが住めるように家具などを買いそろえました。

また、ゴーギャンが来る前に自信作を作っておかなければならないとの焦りから、

この「黄色い家」を制作したそうです。

明るい色調の裏には、

ゴーギャンとの生活が始まるゴッホの期待があったのかもしれませんね。

当時のゴッホの生活

ゴッホは実際にこの「黄色い家」に寝泊まりしていました。

「黄色い家」の1階の二つの部屋をそれぞれ台所とアトリエとして使っていたようです。

2階の部屋はゴーギャンが使っていました。

また、ピンクの屋根がついた店はゴッホが毎日食事をしていたカフェテラス

「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」です。

「黄色い家」で生活を始める前はここで生活していたようです。

この店はゴッホの作品「夜のカフェ」(1888)で描かれたところでもあります。

「黄色い家」のその後

ゴッホとゴーギャンは「黄色い家」で生活をはじめ、

出だしは順調でしたが、

お互い個性が強いので主張しあうことも増え、

作品に対してダメだしをするようにもなりました。

そんな中、ゴーギャンがゴッホの自画像に対して「耳の形が変」といったことがきっかけで、

ゴッホは自分の耳を切り落としてしまいました。

有名な「耳切り事件」ですね。

これだけ聞くとゴッホがヤバいようにも聞こえますが、

ゴッホにもフラストレーションがたまっていたのでしょう。

その後ゴーギャンはゴッホの生活を主に支えていたゴッホの弟のテオに電報を出し、

自分はパリへ帰ってしまいます。

こうして、二人のアルルでの共同生活が終了しました。

お互いよっぽどつらかったんでしょうね…。

実際にゴッホはテオに対して

「ゴーギャンはアルルでの共同生活に嫌気がさしているのだと思う」

と手紙で言っています。

その後、この「黄色い家」は1944年6月25日に第二次世界大戦によって消失しました。

現在は跡地に「黄色い家」を示すプラカードがあります。

まとめ

Van Gogh - Terrasse des Cafés an der Place du Forum in Arles am Abend1.jpeg

・「黄色い家」はゴッホがアルルで寝泊まりした家

・「黄色い家」ではゴーギャンと一緒に共同生活をしていた

・現在、「黄色い家」は消失してしまっている

ゴッホのアルルでの生活が垣間見える「黄色い家」。

今は家自体はありませんが、その場に行ってゴッホが見た景色を見てみたいものですね。

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